明治6年(1873年),海円寺(かいえんじ)を教室として開かれました。このときには下等科(6才から9才まで)と,上等科(10才から13才まで)があり,児童数はおよそ130人でした。明治9年(1876年)には校舎が海円寺の丘に建てられ,出藍(しゅつらん)小学校とよばれました。

 明治19年(1886年)には志津川尋常高等(しづがわじんじょうこうとう)小学校と名前をかえ,明治42年(1909年)に新しく校舎(写真1.)が建てられましたが,昭和12年(1937年)の志津川大火のときに焼けてしまいました。

 昭和15年(1940年)に旭(あさひ)製糸工場があったところに前の校舎(写真2.)が建てられました。昭和35年(1960年)のチリ地震津波の被害を受け,校舎のいたみがひどくなったため,昭和55年(1980年)に今の校舎が城場山(じょうばやま)に建てられ,次の年に体育館とプールが完成しました(写真3.)。

 平成20年(2008年)に児童数が減ってきた清水(しず)小学校,荒砥(あらと)小学校といっしょになりました。

 東日本大震災(2011年)では避難所となり,平成27年(2015年)までは,戸倉(とぐら)小学校の友達も同じ校舎で学校生活を送っていました。

(引用:社会科副読本『わたしたちの南三陸町』.南三陸町教育委員会.2019)

1.志津川尋常高等小学校(1886年~)

昔の木造校舎と広い運動場、背後に田畑と山並みが広がるモノクロ写真

2.志津川小学校(1980年児童数926名)

校庭に「’75 志津川小」と書かれた人文字がある空撮のモノクロ写真
国旗が掲揚され白いテントが設置された校庭で、大勢の子どもたちが校舎前に集まり賑やかな運動会の様子の写真
広い校庭で赤白帽をかぶった大勢の子どもたちが整列している写真

3.旧大船(おおぶね)分校(1980年閉校)

窓に紅白の幕が飾られた校舎の前に白いテントが設置され、国旗が掲げられた写真

4.志津川小学校校舎(1981年~)

白壁の3階と4階建ての校舎が、青空の下で静かに建っている現代の学校を校庭から撮影した写真

5.旧荒砥(あらと)小学校(2008年閉校)

2階建ての木造の校舎が木立の中に建つ昔の学校の写真

洋上体験(閉校記念誌『うなばら』より)

子どもたちがライフジャケットを着て船に乗っている洋上体験の様子のモノクロ写真

しめ縄づくり(閉校記念誌『うなばら』より)

子どもたちが大人に教わりながら藁を使ってしめ縄作りを行っているモノクロ写真

6.旧清水(しず)小学校(2008年閉校)

校庭にピンク色の花が咲く1本の木が立つ、2階建ての校舎を雨が降って水たまりが出来た校庭から撮影した写真

地引き網体験(閉校記念誌『清水っ子』より)

オレンジ色のジャージ姿の子供たちが、大勢の大人が集まって地引き網を行っている様子を見ている写真

きつつき体操(閉校記念誌『清水っ子』より)

等間隔に並んだ赤白帽子に体操服姿の児童たちが、体育館の床に座り両手と両足を上げてきつつき体操を行っている様子の写真
志小 輝くこども(黄色の花や、子供たちが様々な体験を行っている4枚の写真)

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