机に黒いボトルと筆皿が置かれている部屋で、グレーのキャスケット帽をかぶった男性が木製の机に向かい、筆ペンを使って白い紙に龍の線画を描いている様子の写真

ラフを元に龍の姿を描いていくヤスさん

南三陸町の手仕事を紹介するこのテーマ。初回は町民から“ヤスさん”の愛称で呼ばれている「Design Studio一筆」の小山康博さんです!突き詰めてきた筆一本の道、そのルーツと今に迫りました。

使うのは「筆」と「墨」のみ。“夢”から始まった物語

インタビュー場所として教えられた古民家風の建物を訪ねると、いつもの明るい声で名前を呼ばれた。「分かりづらいでしょ?ようこそ、うちのアトリエへ!」作業机には作成途中の墨絵が並ぶ。

木の大きなテーブルが置かれ、赤と黒の椅子やテレビ、壁際の棚に画材や飾りが整然と並び、天井の梁が見えている木目の壁に囲まれた作業部屋の写真

落ち着く色彩で整えられたヤスさんの仕事場

ヤスさんは主に墨絵を用いたデザインや絵を描いている。Tシャツやポストカード以外にも、町内外の店舗の看板や商品のロゴなど幅広く対応。特徴は墨絵独特の「かすれ」だと言う。

「墨絵の濃淡って水を使って出す人もいるけど、おれは筆先につける濃さとかすれで表現してるんだよね。墨汁でパサパサになった筆先も、かすれを出すときによく使えるんだよ」

細い墨の線で鋭い爪を持った龍の手と、背のようなギザギザの線を紙に描いている繊細な手元の筆先をアップで撮影した写真

一本一本、時間をかけて書き込んでいく

ヤスさんが今の仕事を始めたのは17年前。絵を描く前は地元のホテルにあった写真屋さんに2年間務めていた。転機が訪れたのは知り合いから頼まれた一つの作品だったと言う。

「ある日、服屋の店長の誕生日に“夢”って書いた色紙をプレゼントしたんだよね。そしたらすごく喜んでくれて、その字をTシャツにしよう!って言ってくれて。あぁやっぱりおれは描きたいんだなって気付いたんだ」

そこから仕事を辞め筆を握ったものの、それだけでは食べていけない日々が続いた。

踏み込んだ先で、葛藤と焦燥と譲れない想い。

独立当初、絵だけでは十分に稼げなかったため、日中は南三陸町に隣接する登米市で移動販売で三陸の乾物を販売し、夜にデザインの仕事をする日々が11年続いた。そうして過ごしているうちに同級生たちは結婚し、社内で昇進し、子育てをしていた。

「どうしても周りとの差を感じてしまったよね。自分なにやってるんだろうって。でも、おれには絵しかなかった」

身の回りの小さな評価だけで自分のデザインが判断され、同世代と比較される環境。それでも、決して折れなかった絵の道。その道に光明をもたらしたのはSNSだった。

白いマグカップやスケッチブック、墨皿などが散らばっている机の上で、翼を広げたフクロウの緻密な墨絵を描いている男性の写真

今では写真など見ずに描けるようになった大好きなフクロウ

Facebookに作品を掲載し始めたのが8年前。そこからヤスさんの世界が変わった。

「友達じゃなくても“いいね!”を押してくれたり、コメントでオリジナル作品のオーダーも来るようになった。今までと違って見知らぬ人たちから評価されることが自分の自信になったし励みにもなったよ」

今では4年前から始めたInstagram経由で作品の注文やオーダーがあると言う。そうして描き続けてるうちに、ヤスさんの絵はどんどん進化していった。

「絵の世界」へ。切り開き続ける道。

作品を描き続けているうちに、自分の道の先にはまだ誰もいないことに気が付いた。

「先輩って人がいれば良かったのかもしれないけどさ」

「墨絵の絵師さんはたくさんいるけど、おれみたいな人はいない。手本も見本も先輩もいない世界だね」ニンマリと笑みを浮かべるヤスさんから、本当に楽しくって仕事をしていることが伺える。

男性が机で大判の画集を開き、モノクロで描かれたフクロウのページを指差しながら作品を説明している様子の写真

2019年版の「WA MODERN」にヤスさんのフクロウが掲載された

ここまでたどり着くのにどれほどの壁を超えてきたのだろう。
ヤスさんの絵のルーツについてお聞きすると「自分自身の環境だったろうな」とポツリと呟いた。

表現することから始まった絵の道

「幼稚園とかその頃から絵を描くのが好きだったよ。」

幼少期の時点でヤスさんはすでに絵を描いていた。中学、高校と文化祭などの行事ではもっぱらポスターなどを自ら手を挙げ描いていたと言う。

「その中でも一番は、小学6年生の時の愛鳥週間だなぁ。イヌワシの絵で全国2位になったんだよ!」

今ではどんなイヌワシを書いたかは正確には思い出せないが、蔵王に行って表彰されたことは印象的だったそうで、そこから様々な賞を取り続ける学生時代を過ごした。

当時習字を習っていたヤスさんは「習字で字を書きながら絵が描けたら面白いのになぁ」と考え、そこから今のスタイルが始まった。

「習字ってさ、かすれが魅力だと思うの。このかすれを意図的に出せないかなと思ってさ、線を一本一本描くようになるわけ。志津川の海の波をイメージして最初かすれ線を描いてね。それはいまだにそうで、かすれ線=波なんだよね」

独立し2年目の頃、人生で初めて看板を描くことになった。依頼主は「弁慶鮨」さん。
震災後に仮設店舗で再開する際にも同じデザインで依頼され、そしてさんさん商店街の時も同じ物を。

「諸先輩方とか同級生におれはすんごく助けられていて。本当に助けられて。仕事少ないなってときに同級生から仕事の依頼が来る。不思議なんだよなぁ」

「今までお世話になった人たちに恩返しというか、できることは作品の価値をどう上げていくか、かな。」

「三」の上中央に鳥居が立ち、周囲を波で囲んだデザインが力強い黒い線で描かれているイラスト作品の写真

試作段階のデザイン。荒島と波で南三陸の「三」を表現

羽ばたき続ける道

「特殊な仕事だよ。でも、なるべくしてなってる。なるべくして今こうなってる。ここポイントだね。」

わかる人にはこの言葉でわかるから。ふふふと笑う表情には、たくさんの感謝と喜びが見えた。

笑顔の男性が室内で翼を広げた大きな黒いイヌワシを描いた額入りの作品を両手で持って誇らしげに見せている様子の写真

愛鳥週間の時から書いていなかったイヌワシ。最近は絵の依頼が多くなっているという。

小さな世界から東北、日本、そして世界に。繊細かつ大胆な墨絵が南三陸から羽ばたき始めた。

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