白衣と袴を着た工藤庄悦さんが獅子頭を使い、座っている年配の男性の頭を優しくかぶせている和やかな雰囲気の様子を捉えた写真

900年の歴史がある上山八幡宮の第25代宮司に昇格した工藤庄悦(くどうしょうえつ)さんにお話をうかがいました。現在は志津川地区にある5つの神社(上山八幡宮・古峯神社・保呂羽神社・西宮神社・荒嶋神社)を中心に職務にあたっていらっしゃいます。その誠実な人柄と優しい笑顔で、「志津川の宮司さん」として、地域の方々にも親しまれています。

お菓子屋の息子が、神主に転身

神主の世界に入ったのは(上山八幡宮の跡取りである工藤真弓さんとの)結婚がきっかけですね。それがなければ神主になることはまず、なかったですね。私は町内のお菓子屋の息子だったので。町内の祭事には参加してましたけど、お付き合いで参加していたというだけで神様の存在も、気にもしたことがなかったですね。

先代の宮司からお話があった時は「私みたいな者でなれるんですか?」って聞いたんですよ。やっぱり神主というのは、「偉い人がなる」もの「立派な人がなる」ものだと思ってました。でも「信頼は後からついてくるから。ちゃんとやってれば大丈夫」と。

実家のお菓子屋と神社での仕事を両立させる生活が5~6年経ったころ津波(東日本大震災)がきました。震災後、その実家のお菓子屋がなくなったので、もう神主しか仕事がなくなったんです。ですが、震災から一年間は、催事もほぼなかったんですね。私もすごく不安になって、何もしない訳にはいかず、コンビニでバイトしたりしてました。

伝統的な装束を着て黒い冠帽子をかぶった奥さまの工藤真弓さんと工藤庄悦さんが、屋外の石段の前で並んで笑顔を見せている写真

奥さまの工藤真弓さんと

震災後の地鎮祭や安全祈願を任せられ、一人前に

震災から一年が経った頃、地鎮祭が増えてきたんですね。宮司に「大丈夫だ」と言われ、一人で行くようになって。ハウスメーカーから頼まれることも多く、気仙沼や、古川など、どこにでも行っていました。当然ですが私を知らない人は、私のことを「神主さん」としか見ないですよね。だからもう、堂々とやるしかない、と。そんなことを一年、二年と続けていくうちに、いつのまにか自分が「神主」になっていたような気がします。

宮司も80歳近かったので、工事の安全祈願なども「もう一人で大丈夫だから」と任せられてしまいました。その時には、私も「継がなければならない時期なんだな」と感じてはいました。

それから間も無く、平成27年の10月半ばに先代宮司が亡くなったんです。本来私が宮司になるには、もう一段階資格が必要だったため、「宮司代務者」という肩書きで、その後勤めることとなりました。そんな折、資格免除での通知を頂き、晴れて今年宮司に昇格させて頂くこととなりました。

これは本当に、先代宮司のお導きだと思っています。

神社の前で、装束を着た工藤さんご夫婦と正装した男女が並んで写っている集合写真

「神主は偉くない」の言葉に救われて

研修や他の神主さんから教えられた、印象的な言葉があります。

「神主は何も偉くない。一般の人が神様にお願いをする時は、神社等に来て拝めばいい。でも、もっと丁寧に祈りを捧げる為に、私たちがいる」と。

祝詞って、聞いていて分かるところと分からないところがありますよね。あれは、神様に伝える為の昔の言葉で読むから、祈祷に参加する人たちの気持ちを、祝詞で伝えるんです。仲介・通訳と言えるかも知れません。

「神主は偉くない」という言葉を聞いて、心が楽になりました。「言葉と作法を勉強して神様に伝えるだけの立場です」と言えますからね。私は今も、偉くなりたいと思いませんし、ただただ「この神社を守る」という存在でいたいと思います。

夜の屋外で、左側に大きなかがり火が燃えているのが明るく写り、その隣に赤い布に白い文字で「八幡宮」と書かれた旗が立っている写真

南三陸はやっぱりいい町、そう思います

子どもの頃は、家の近くに川があったので、鮎やハゼを釣って遊んでいました。ただただ自然の中で、自転車で駆け回っていた記憶があります。高校を出てからは、仙台と沖縄のお菓子屋で約5年間働き、22歳の頃実家に帰ってきました。

外から帰ってくると、ここ(南三陸町)の気候も、水も、食べ物も、みんな素晴らしいんだということに気づきましたね。若い頃は、知り合いばかりで過ごしづらい町だと思っていたんですが、結婚してからは、そのおかげで安心できる町でもあるんだなと思いました。子どもがいれば尚更ですね。津波がきてバラバラになって、また戻ってきた時にも、そう感じました。いい町なんだなと。その想いは、年々強く感じますね。

神社離れ・お寺離れというのは南三陸町だけではなく、全国的な現象ですので、それは仕方ないですね。そんな中で、自主的にお祭りに関わって頂ける皆さまに対しては、本当に素晴らしい方々だなと思って感謝しています。神社は神主だけでは何もできないので。

最近の傾向では、町外から来た方の方が興味深く、熱心に協力して下さる方が多くなってきました。ありのままの現状を受け入れて、それでも協力して頂ける方が。不思議なことだと思っています。

階段の上から下に向かって多くの人々が協力して大きな竹の棒の旗を運んでいる写真

町の人のくらしや価値観に寄り添った神主になりたい

年に一度のお祭りが、神主である私を通して、神様に祈りを捧げる場だとすれば、何も私を通さなくとも良いとも、思うんですよ。個人個人で祈りを捧げても。心のどこかに常に、神様の存在を持っていて欲しいなと。「バチがあたる」なんて言葉も最近、忘れがちですよね。『神様がどこかで見ている』という意識も、薄れがちなのかな、と思います。

私は、いわゆる「神主らしい」立派な言葉は、言えないし、言いたくないんですよ。神社経営の為の会社みたいになってしまいそうで。ただ私は町の皆様といい関係で、自分の役割をしっかり勤めて、やっていきたいだけなんです。だから、今のこの町の人たちの暮らしや価値観を変えたいとは思っていません。お祭りのご案内をして「本業で忙しい」というお返事なら、仕方のないことです。私も勤め人の経験があるので、気持ちが分かりますからね。

よく町の人たちと「神様がいる・いない」の話になるんですが、その時には自分のことを話します。「こんな私が宮司になれたのは、神様がいなければなれる訳がない、説明がつかない」と。

私は婿ですし、全国でも直系の女性の宮司の事例は多くあります。妻の方が町の人に信頼があるし、話がしやすいし、適任だと思っています。妻が宮司になって、私が陰で支えるべきだと。だから今回は、神様から抜てきされた想いですし、不思議だなと思っています。

神職の庄悦さんが暗がりの社殿の中で神前に向かって榊(さかき)を手に持ち祈りを捧げる中、スーツ姿の男性が正面の神棚に向かって正座し深く礼拝している様子が静かに灯されたロウソクの明かりに照らされている、神道の厳かな儀式の写真

ご祈祷中の庄悦さん

インタビューアーより

南三陸町に生まれ育ち、導かれるように神事の世界に足を踏み入れた庄悦さん。「宮司」「神主」という肩書きに思い悩んだ時期がありながらも、多くの方々の支えとご自身の成長により乗り越え、そしてご自身ならではの「神主のあり方」を確立された方でした。謙虚な姿勢で「南三陸町の今と未来」を語られる。

庄悦さんは、笑顔は優しさで溢れ、そして決意に満ちていました。これからも「神様の仲介人」として南三陸町の文化に寄り添い、多くの町の人たちに親しまれる「神主さん」であり続けて欲しいと思いました。

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