手書きで「昭和五十四年居宅新築記録」と書いたタイトルが貼られた8ミリフィルムの写真

復旧・復興工事が日々進む南三陸町。
未だ仮設住宅での暮らしを余儀なくされている方も、順々に高台移転地への引渡しがおこなわれています。
新しい家は、待望の安息地となることでしょう。
対して今回は、少し昔にさかのぼり、昭和40年代の家づくりのお話です。
入谷のとあるお宅から、貴重な8ミリフィルムが何本か発見されたそうです。
そこに映っていたのは、昭和52~53年頃、そのお宅を建築した際の様子を記録した映像でした。

手書きで「昭和五十四年居宅新築記録」と書いたタイトルが貼られた8ミリフィルムの写真
茶色い透明のケースに入った黒い円形のフィルムの写真
黒い映写機にフィルムがセットされている写真

この映像を観ながら当時の家づくりや「結い」の姿について学ぶ「地域を学ぶ勉強会」が開催されました。(主催:一般社団法人南三陸研修センター)

1月28日木曜日「「地域を学ぶ勉強会」8ミリフィルムでよみがえる昭和40年代の家づくり」と書かれた会議室の立て看板の写真
緑色のセーターを着た男性がペンを持った右手を挙げて話をしている写真

会場のいりやどには、当時の様子をよく知る人から、当時まだ生まれていなかった人まで、50人を超える方々が集まりました。
解説と進行は、入谷出身のヘリテージマネージャー(歴史文化遺産活用推進員)・阿部正さんです。

白い長机の後ろにスーツ姿の男性が立っている写真
広い室内に並んだ椅子にたくさんの人々が座る中、天井に設置された大きなスクリーンの左側に男性が立っている写真

上映前、かつては上棟の際には必ず見られた「謡い」が、現役の大工さんである佐藤雄一さんから披露されました。
現在ではハウスメーカーによる住居建築が多くなり、こうした伝統的な儀式もほとんど見られなくなりましたが、年配の方々にとっては耳慣れた唄でしたので、方々から一緒に口ずさむ声が聞こえてきます。
映写機のパタパタという温かい音とともに、セピア色の、これまた温かみのある映像が映し出されます。

カーテンを閉め、照明を消して暗くした室内で、映写機のからの光が煌々としている様子の写真
前方のスクリーンに映った映像を、席に座った参加者たちが見つめている写真
積み上げられた木材の前でタオルを首に巻き、法被を着た男性が作業をしている様子がスクリーンに映し出されている写真

映像には、山から木を伐り出し、製材、乾燥していく工程から、旧家を取り壊し、新しい家を建て、内装を整える場面、そして新築祝いの宴まで、半年以上に及ぶ家が建つまでの様子が、およそ1時間半にわたり記録されていました。
驚くべきことに、これらの過程のほとんどすべてが、町内の大工・左官・建具などの職人を中心に、地域の人々の手によって行われます。
つまり地域の素人たちが、屋根に上り、材を担ぎ、木槌を振って建てられた家だということ。
誰かの家で新築があれば、あるいは屋根の葺き替えがあれば、手伝いに行くのはあたり前。
報酬は賄い食とお酒。また、手伝った分だけ自分に手伝いが返ってくるわけです。
この辺りには「契約講」という習わしが未だ残っていますが、地域と“契り”を交わし、同じ契りの仲間たちで助け合って暮らしていく。
現代社会では、特に都市化の進む地域では、ほとんどこうした姿が見られなくなりましたね。
本来であればこれだけの人数が関わって家を建てれば、お金もかかるはず。
「かなり安く建てられたこと」が、それだけ地域の人たちが助けてくれた・関わってくれた、という家主さんの一番の自慢なんだそうです。
また、多くの地域の人が関わることで、大工も手を抜いた仕事はできない。
人の関わりが家をより良いものにし、また職人を育てたと言います。
昭和40年代の日本といえば、高度経済成長期真っ最中、住宅の団地化やニュータウン化が進んでいた時期でした。
それでもまだ「町内会」や「町内清掃」、「地区の盆踊り祭り」などの集落のつながりは、かろうじて残されていた時代です。
私たち南三陸町民は、あるいは日本人は、大きな災害を経験し、人と人との関わり・助け合いの豊かさ、重要性に改めて気づかされました。
たまたま発見された家づくりの8ミリフィルムは、私たちにもう1度それを教えてくれました。
(藤田)

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