夕方の曇り空の下、中央にひまわり型の時計台が立ち、駐車場には多くの車が停まり、奥には森に囲まれた建物が点在する施設周辺の風景の写真

夏も終わり、ようやく涼しくなったと思ったら今度は雨続きです。
収穫目前の田んぼへの影響が心配です。

さて、戦後70年となった今年。
ここ南三陸にも当時の様子を語り継ぐ男性がいます。
先日8月26日、歌津総合支所会議室にて講話『仙台空襲と旧歌津地区の空襲』を聴かせてもらいました。

夕方の曇り空の下、中央にひまわり型の時計台が立ち、駐車場には多くの車が停まり、奥には森に囲まれた建物が点在する施設周辺の風景の写真
明るい教室で中央に立つ年配の男澤達夫さんが話をしており、机に座った数十人の参加者が真剣に耳を傾けている写真

語り手は御年83歳の男澤達夫さん。
歌津(旧・歌津町)名足地区で生まれ育った方です。
小学校卒業後は仙台の学校へ進学し、1945年7月10日の仙台空襲の際は市内郊外の親戚宅にいらしたそうです。

男澤達夫さんが左手を横に伸ばしながら話している写真

「そこから仙台の町を見るとすっかり眼下なわけです。
(中略)
空襲警報が鳴って、長町の方から飛行機が入ってくるのが見えるわけです。
最初は小さく、それが一発二発と落ちて燃え出して明るくなって…。」

机の上には仙台空襲 3度の津波体験の見出しと男性の写真が載っている新聞記事とメモ帳、ボールペン、携帯電話が置かれている写真

1400人が命を落としたと言われる仙台空襲。
男澤さんも焼夷弾から逃げ惑いました。
仙台の自宅は焼失し、家族とともに名足へ辿り着きますが故郷の浜も機銃掃射に襲われます。

「その日ちょうど若者の会合で、中山馬場に船が出ていた。
あの小さい小船をやるんですよ、機関銃でバーーーッと。
それを何度もやるんです。」

当時中学二年生だった男澤さんの話に聴客が聴き入ります。

「それ、私たちも見てました。」
「目の前まで来ましたねえ。」

会場内からも当時を証言する声が挙がりました。
平和な現代には想像も難しいですが、70年前にこの地にあった出来事です。

白いホワイトボードの前で男澤達夫さんが図を描きながら説明していて、複数の受講者が座って聞いている教室の様子の写真

男澤さんは1933年の昭和三陸津波をはじめ、三度の津波にも見舞われています。
光景の悲惨さは似ているものの、戦争だけは決して繰り返してはならないと語ります。

「どう知恵を絞っても戦争だけはしたくない。
子どもたちと緑の自然を守っていかねばなりません。」

一時間の講話が終わったのちも、男澤さんの前にはもっと話を聴きたい人々で列ができていました。
今この時だからこそ聴くべき体験があります。

教室内で男澤達夫さんが正面の教壇に立って話しており、手前には子どもから大人まで複数の参加者が座って真剣に耳を傾けている様子が写っている講演中の写真

(日比谷)

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