「うみべの広場」のオープンについて
ひとびとが集い、交流する場として「うみべの広場」を整備し、モアイ像(2体)を設置しています。
うみべの広場の概要
- うみべの広場整備(総土地面積:7,474㎡)及び駐車場整備(土地面積:768㎡)
- 位置:宮城県本吉郡南三陸町志津川字南町206番地 ほか
- 設備:広場(3か所)、公衆用トイレ(男子用、女子用、多目的トイレ)、駐車場(1か所)
<Googleマップ>
<うみべの広場等案内図>
<モアイ像(2体)>
2013年5月25日 1991年
チリ共和国から寄贈されたモアイ像 旧志津川町で作製したモアイ像
<記念石碑>
<うみべの広場>
<公衆用トイレ>
うみべの広場の利用について
チリ共和国との絆~モアイ像が贈られるまで~
約17,000㎞の距離を越えて、旧志津川町とチリ共和国は、友好関係を深めてきました。
そのきっかけは1960年5月24日未明に、遠い遠い海の向こうから押し寄せて来たチリ地震津波でした。
旧志津川町内だけで、41名が犠牲となり、312戸の家屋が流失、倒壊653戸、半壊364戸 、浸水566戸の壊滅的な被害を受けました。
この津波の記憶を未来に伝えようと、30年後の1990年にチリ共和国から国鳥コンドルの碑が贈られ、1991年には旧志津川町がふるさと創生事業の一環としてチリ人彫刻家に依頼して作成したモアイ像が、志津川地区の松原公園に設置されました。
東日本大震災で公園は被災しましたが、流出したモアイ像が発見され、志津川高校(現在南三陸高校)の敷地内に一時移設されました。このことを知った日智経済委員会チリ国内委員会は、南三陸町に新たなモアイ像を贈ろうと、イースター島の長老会に協力を求めました。
この話を聞いた93歳の老彫刻家マヌエル・トゥキ氏は、
「海に破壊された日本の町に、人々が再びそこで生きていきたいと思えるようなマナ(霊力)を与えるモアイを贈れないのか?私は息子とともに日本の人たちが必要としているモアイを彫る!」と、皆に呼びかけ長老会は大きな拍手で包まれたそうです。
イースター島の石を使い彫られたモアイ像が、島外に出たことはあリません。しかし、かつて倒れてバラバラになっていたモアイ像を日本人がもとの姿に建て直す支援をしたことから、イースター島初のプロジェクトが始まりました。
こうして息子のベネディクト・トゥキ氏は石材を切り出して、親戚の彫刻家たちとともにモアイを製作しました。
2013年5月25日、南三陸町を訪れたトゥキ氏は、設置されたモアイに白珊瑚と黒曜石で作られた目を入れました。目が入ったモアイは、世界に2体しかありません。
南三陸町を訪れ、津波の惨禍を目の当たりにしたトゥキ氏の目には涙があふれました。
「目を入れるとマナ(霊力)がモアイに宿る。南三陸の悲しみを取り払い復興を見守る存在になることを願っている」と彼は語りました。
チリ共和国も南三陸町も、豊かな海から糧を得、その恩恵に感謝しています。そして長い歴史の中で、いとも簡単に人間の命や暮らしを奪う海の恐ろしさを熟知しています。
地震を感じなくても、津波は地球の反対側から襲ってくることがあります。双方の地は長い時間の中で大自然の災禍を体験し、人間がどう自然と共生すべきかを学んできました。そして、どんな困難にぶつかったとしても、勇気を持って立ち向かう心意気を勝ちとってきました。
「モアイ」は、イースター島のラパヌイ語で「未来に生きる」という意味です。
門外不出の大切なものを贈ってくれたチリ共和国とイースター島の人たち、そして高さ3m重さ2tの巨大な像を、はるかな島から運び設置するために力を尽くしてくれた企業や多くの人たちの気持ちが、南三陸のモアイには込められています。
未来に生きる南三陸町の人々を、遠い末来まで勇気づけ、見守り続けることでしょう。